なんだったら誰もふれるなと思う

 心のやわいところとかたいところがある。でもそれらは相反しているだけで、別にかたいところはやわいところを包んではいないしやわいところはかたいところを盾にしてくれない。

 やわらかいところもかたいところも、その性質がそうであるだけであって、別にやわらかければかたければそれほど自分が傷ついたり感応したりといったことじゃない、と思う。

 やわらかいところを押される度にそのふわふわした感じに脳みそがふわふわすることもあれば、かたいところを押される度にそれはかたいのだと改めて感じてそのかたさがみっともなくて泣けてしまうこともある。

 人にもよるな。尊敬する人や好きな人からの何もかもを享受して喜べるほど出来た人間じゃないけれど、嫌いな人間からの何もかもを拒絶して苛立てるほど駄目な人間じゃないと信じたい。信じたいけどどうかな。人間として駄目だからな。

 未だに自分のやわいとことかたいとこがわからなくて、後から何度も反芻することでようやっとその感触に苛まれて世の中を恨む夜もあるから、できたら誰にもふれられてくないのかもしれないし、自分でさえもその感触を知りたくないのかもしれない。