なんだったら誰もふれるなと思う
心のやわいところとかたいところがある。でもそれらは相反しているだけで、別にかたいところはやわいところを包んではいないしやわいところはかたいところを盾にしてくれない。
やわらかいところもかたいところも、その性質がそうであるだけであって、別にやわらかければかたければそれほど自分が傷ついたり感応したりといったことじゃない、と思う。
やわらかいところを押される度にそのふわふわした感じに脳みそがふわふわすることもあれば、かたいところを押される度にそれはかたいのだと改めて感じてそのかたさがみっともなくて泣けてしまうこともある。
人にもよるな。尊敬する人や好きな人からの何もかもを享受して喜べるほど出来た人間じゃないけれど、嫌いな人間からの何もかもを拒絶して苛立てるほど駄目な人間じゃないと信じたい。信じたいけどどうかな。人間として駄目だからな。
未だに自分のやわいとことかたいとこがわからなくて、後から何度も反芻することでようやっとその感触に苛まれて世の中を恨む夜もあるから、できたら誰にもふれられてくないのかもしれないし、自分でさえもその感触を知りたくないのかもしれない。
悲しい一瞬に巡り合いたくない
人と関わることは好きだ。
バカ話をすることも好きだし大人数で騒ぐことも今まで話したことが無い人と酒の席でふと分かち合うことを見付けることも時には政治だの社会問題だのについて真面目に語るのも好きだし。
人と関わって自分が楽しい瞬間が好きなんだと思う。
自分が人と関わることで心地よいエネルギーに満たされている時間が好き。自分は他人に許されているし他人に許されているような気持ちになる。だからたいていの毎日は「今日のあの話面白かったな」「はよ皆に会いたいな」なんて思いながら帰路につくしアパートで一人ぼんやりしてる。
だから、時々人との関わりあいの中でふいにその心地よいエネルギーが消える瞬間がたまらなく嫌いでしんどくて、一生かと思うぐらいに胸に積もってしまう。
例えばさりげなく無視された時とか。例えば「あ、私の優先順位はこの子にとって低いな」「この場に私はいらんな」と気付いた時とか。一方的に怒りをぶつけられたり、私の良くないところを人前で指摘された時とか。皮肉や冷笑を食らった時とか。
こうして言葉にしてみると、「水をさされる」みたいなのが嫌いなんだと思う。
私はいつだって炎みたいに轟轟と燃えて踊って何も考えていたくないから、そこに他人からつめたい水を注がれて、一瞬思考しなきゃいけない・させられる瞬間が嫌なんだなと。
でも相手はきっと燃えてる私のどこかの何かが間違っているからその水を注いで勢いを止めようとしてるし、その水はきちんと受け止めれば私のこれからにプラスになるんだろうなと思う。無視だって、きっと私が面白くないこと・都合の悪いことを言ったからだ。優先順位は私の能力をふまえて考えたら当然のことだ。私が間違えてさえいなければ、怒りも指摘もきっとない。私が愚かでなければ、皮肉や冷笑も、同じように。
そうやって自分が悪いと言葉の上では理解してるし受け止めようとしているくせに、心の方はただただ悲しい瞬間として積もらせていくから、良くない。わかってない。言葉の上でも理解してないのかもしれない。指摘してくれることなんて、これからそうないことかもしれないのに。相手の正しい「瞬間」を無駄にしてるのは私なのかもしれない。私が悪い。
その人にとってはきっと何でも無い瞬間だったんだろうけど、アパートで一人でいるとその瞬間を思い出す。悲しかったなって、脳裏に過る。その人が笑って「おはよ~」って、昨日のドラマの内容を口にするのを聞きながら、その悲しい一瞬が積もっていく。
積もったものは何にもならなくて、ただ、また明日や明後日の自分は思い出すんだろうな。あの時悲しかったなって。思い出したくないし忘れたくて仕方がないのに、たぶん、明日あの子に会った時に私はまたあの冷たい感じを思い出すよ。